漢!廣道 純!!

編集者から始めに

今回取材させて頂いた廣道さん。
大分に住んでいたころテレビで見たことがあり、車いすランナーであることは知っていたものの、過去の成績や経歴など知らないことだらけでした。しかし、ソイスポの連載の中で廣道さんが登場し、是非詳しく話を聞きたいと思って、シモケンさんにご紹介頂き、インタビューに至りました。
※シモケンさんについてはコチラをご覧ください。
https://trinita-socialaction.com/?p=760

内容に入る前に廣道さんのプロフィールをご紹介します。

廣道 純
1973年12月21日
大阪府堺市出身
【来歴】
高校1年の時、バイクに乗って事故を起こし、脊髄損傷により車いす生活となる。退院後、即車いすレースの世界へ。1994年、当時の車いすマラソン世界記録保持者ジム・クナーブの元へ弟子入りを志願。彼の元でホームステイし、レース前のメンタルトレーニングや勝ち方、練習方法など多くのことを学び、アスリートとしての素質を開花させる。
日本初の障がい者プロアスリート。プロのアスリートになってからは、年間25~30回のレースに出場する傍ら、テレビ・ラジオ出演、講演などもおこなっている。
【主な成績】
・2000年 シドニーパラリンピックの800mで銀メダル
・2004年 アテネパラリンピックの800mで銅メダル
・2008年 北京パラリンピックは大会前までの世界記録を上回る記録で8位入賞
・2012年 ロンドンパラリンピック800mでは6位入賞
・2つの日本記録ホルダー
400m:50秒21 (2010年)
800m:1分36秒85(2010年)

車いすマラソンの街「大分」

――なぜ大阪の人が大分に住み、活動しているのか教えてください!

競技に集中でき、車いすランナーである僕を1人のアスリートととして扱って頂ける環境があるからです。大分に住んで20年以上にになります。
大分って本当に車いすランナーにとって凄いところで、僕が初めて大分に来たのは1991年、17歳の時でした。第11回の大分国際車いすマラソンに出場しました。この大会は参加者やテレビの数も、他県の大会とは大違いです。大会結果は翌日新聞で1面に飾られるし、本当に衝撃を受けました。当時は大阪に住んでいたので、大分の情報も入ってこないし、僕の中では「車いすマラソンの街」という印象でした。
そんな僕が競技に没頭し、さらなる高みを目指していた時に、ホンダ太陽とご縁ができ、1999年にホンダ太陽に勤めながら、午後は競技の練習をするという形で、大分に来ることになりました。

――大分の障がい者スポーツに携われている方と話すと必ず太陽の家の話が出てきます。
  いつかきちんと取り上げさせてもらいたいです。

中村裕さんという方は、健常者に食べさせてもらう障がい者ではなく、障がい者も「納税者になるべきだ」と唱えて、太陽の家を設立し、大分の車いすマラソンも当時の知事にかけあって実現させた人。絶対に勉強すべきですよ。

競技者としての姿

――世界チャンピオンに弟子入りされた話に興味があります!詳しく教えてください!

※競技を始めたばかりの頃の廣道さん

20歳くらいの頃、それまで順調に競技レベルを上げてきたんやけれど、もう一皮むける必要性を感じていました。日本3位くらいまではいけるけど、1位には届かない。どうしても勝てない選手がいたんです。
そんな時に1995年の4月にボストンの車いすマラソンがあり、そこで当時5連覇していたのが、師匠になるジム・クナーブ(以下ジム)。
めちゃくちゃ安易な発想で「ボストンの大会にいけば、ジムに会えるやん。そこで接点つくって教えてもらおう!」とボストンへ飛びました。英語なんて話されへんから「ナイストゥミーチュー ジュンヒロミチ」だけ準備して(笑)
そしたらちゃんとジムは大会に出てて、会えました。そこで「練習教えてくれ!」と伝えると、ジムからアドレスの書かれた名刺をもらいました。「連絡してきていいよー」ぐらいのスタンスやったと思います。
でも僕は必死やから、世界一の選手から練習教えてもらって、日本一に早くなりたいし、

日本帰ったら英会話教室に通い、英語の勉強して、メール送って、国際電話とかしてたら、ジムがFAXで練習メニュー送ってくれて、そんなやり取りが数か月続きました。

それで今度は1995年の10月に大分国際車いすマラソンでジムが日本に来たんです。その大会が終わった後、大会のボランティアの通訳さんが僕に駆け寄ってきて「俺の家に練習に来いとジム・クナーブが言ってる」と伝えてくれて、速攻でジムに電話してアメリカでホームステイさせてもらう事になりました。

その頃には少し英語話せるようになってたし、そういった姿を見ててくれたんやと思う。

――漫画みたいな話で、鳥肌です!!

ここから僕の人生や考え方が本当に変わったね。
印象に残ってることは沢山あるけど、とりあえず2つ。

まず言われたことは「ここで学んだことを日本に帰ったら、みんなに共有しろ」ということ。僕は日本1位の選手を出し抜くために、ジムに会ったわけやから、出鼻くじかれた。
でも世界一の器は全然違う。「みんなでレベル高めて、その中で1番になれ」と。
もう何も言えなかったね。
日本人は自分だけ良ければって隠したがるけど、それではダメだと反省した。

2つ目はジムはプロ車いすランナーで僕のことをスポンサー先に連れて回ってくれた。そこではOakley(オークリー)のサングラスを「この中からどれでも選んでいいよ」と言ってもらってる姿やったり、よくわからんけどめちゃくちゃカッコ良かったんです!
それと感じたのはプロになるっていうのは、僕はもともと野球チームみたいに、「プロの団体があって、スカウトを通じてその組織に入ること」がプロになるという事と思い込んでいたけど、自分がスポンサーを集めて「自分でプロになるという選択肢」を知りました。そういった道もあるんだということを、体感させてもらったアメリカの修行時代でしたね。

それで修行を終えて日本に帰ってきた96年11月の大分国際車いすマラソンで、当時のライバルを倒して初めて日本一になることが出来ました(^^)/

ーーおー!!そして99年から大分で生活がはじまり、競技に集中し、
2000年のシドニーパラリンピックでの銀メダル獲得や、アテネでの銅メダルに繋がるわけですね!

※99年大分に引越した1年目の大分国際車いすマラソン。青と黄色のホンダアスリートチームのウェアで戦う廣道さん

プロとしての矜持

――日本初のプロ障がい者アスリートにはどうやってなっていくんですか?
  プロとしてのこだわりを教えてください。

アメリカでジムから見たことに尽きます。
僕は事故したときにふさぎ込む可能性もあったけど、色々なタイミングや奇跡みたいなことが重なって、車いすレースと出会い、前向きに物事を考えられた。

僕はアメリカにいって人生が広がった。

何かマイナスなことがあっても
自分の可能性を「自ら閉ざすな」ということを僕が競技する姿で示したいし、

テレビやラジオに出させてもらって、家族も幸せにして、全てを手に入れるために全力で生きる。
その姿を健常者障がい者に関わらず、多くの人に伝えることで、「僕を見た人に何か感じてもらえたら嬉しいな」と想って活動しています。

こういったことをスポンサーになっていただく会社に話して、共感していただいています。

――今後の展望について教えてください。東京パラリンピックはどのような状況でしょうか?

まだ代表選考中です。もともとは2020年の6月に代表選手の内定が出る予定でした。でもコロナの影響で全部延期。

でもね、今めちゃめちゃコンディション良いんです!
この自粛期間中、ずっと練習してました。
コロナ前だと競技以外のお仕事もあって、正直東京パラリンピックはどうかなという感じだったけど、この自粛期間を全て競技に充てることが出来た。代表に入る自信あります!
あとね、パラリンピックでいうと東京の次の次のロサンゼルスパラリンピックも狙ってます!
2028年も代表に入って、アメリカに行き、ジムに「まだまだやってるぜ!」って再開した時に言うのが目標です!

最後に編集者から

取材中「かっこえー」と何回言ったか分かりません。大分に住んでるときに、会いたかったと強く思いました。大分市営陸上競技場や田ノ浦ビーチで練習されているそうです。これからもまだまだ廣道さんは私たちの驚くことをやってくれそうです!!

☆おまけ。ジムさんの顔です。これまた「かっこえー」!!

〈参考〉
https://ja.wikipedia.org/wiki/廣道純

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